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僕の友人は…壱岐のお城のお姫さまだった!? ~壱岐出身女性に聞いてみた!百田尚樹さんの歴史話検証~

2週前に書いた…

「百田尚樹さんが気づかせてくれた

~これからの日本に必要なもの~

 

百田さんはさせぼ夢大学の講演の際に、

壱岐、対馬、鷹島、さらに福岡の志賀島が、

蒙古軍襲来による侵略で虐殺にあい、

鎌倉幕府の御家人である九州の武士たちが

命を懸けて立ち向かったという話をされました。

 

先日、その話を友人にしたら、なんと…

その女性の家は、壱岐の石田町にあった

杓子城(しゃくしじょう)跡に、

先祖代々住んできたというのです。

 

おばあちゃんから語り継がれ、

高校の社会の先生にも聞いたという話は、

百田さんの話そのもの!!

 

今回のテーマは、

僕の友人は…壱岐のお城のお姫さまだった!?

~壱岐出身女性に聞いてみた!百田尚樹さんの歴史話検証~

です。

 

ぜひ、お読みください!

 

(‘◇’)ゞ

 

百田さんが、かなりの時間を割いて話された

蒙古襲来・元寇「文永の役」のお話。

 

十二世紀の終わりに、チンギス・ハーンに率いられたモンゴル民族が、

ユーラシア大陸のほとんどを支配する大帝国を築いていました。

 

なんと、当時の世界人口の半数以上を統治するもので、

元帝国の初代皇帝フビライ・ハーン(チンギスの孫)は、

日本も服属させようと、武力制圧をほのめかした国書を送ってきたのち、

とうとう七百から九百艘の軍船に、水夫を含む4万人の軍勢を送り込んできたのです。

 

蒙古・高麗軍は、まず対馬を襲い、そして壱岐に上陸して

多くの島民を虐殺しました。

この時、蒙古軍は捕虜とした島の女性たちの掌に穴をあけ、

縄を通して、生きたまま船縁(ふなべり)に吊り下げたのです。

おそらく迎撃する日本の兵を恐れさせるためであったと

百田さんの日本国紀にありますが、なんと酷い侵略でしょう。

 

壱岐出身の僕の友人は、高校時代に、

社会の先生にこの話を聞いていたそうです。

 

その女性の実家は、

壱岐の南側にあたる、石田町字杓子松の小高い山の上にあり、

昔は「杓子城」というお城があったんだよと

おばあちゃんから聞いて育ったそうです。

 

そこは、印通寺港(いんどうじこう)を見下ろすことのできる高台で、

山の頂上に天守があったと言い伝えられています。

そこより一段低くなったところに家があり、

今も古くからの石垣が残っているそうです。

 

蒙古軍は、

「文永の役」と、「弘安の役」の二つの襲来とも

壱岐の北側から上陸して侵入。

壱岐国守護代 平景隆(かげたか;文永の役)、

少弐資時(しょうにすけとき;弘安の役)の奮闘が有名ですが、

島内は皆殺しのような目にあったのです。

 

壱岐の南側の出城である「杓子城」は、

なんとか生き延びることができた…のでしょうか。

 

だから、僕の友人の女性は、今も存在しているという訳です。

 

もし、世が世なら、その女性は

杓子城のお姫さまだった!?

のかもしれません。

 

その小高い山の一角に、先祖代々の墓地があり、

その墓地の周りの草薮には、

その戦で命を落としたのだろうと考えられる

誰のお墓かわからない無数の墓石があったそうです。

 

子どもの頃から、お墓参りにいくと、

先祖の供養と共に、

その周りの無数のお墓にむけた供物台に、

お供えものとお線香をあげて感謝と供養の祈りを捧げていたそうです。

 

今では、お父様が小さなお墓をまとめて供養塔を立て、

慰霊されています。

 

 

百田さんの話に戻りますが、

当時の日本の鎌倉武士団は命がけで戦ったのです。

何度攻め寄せても、何度上陸されても、

決死の夜襲をかけ続けたそうです。

 

そうすると、元軍には新鮮な食料は無い。

さらに、疫病が流行る。

その上に、日本はすさまじい夜襲をかける

 

モンゴル軍は、鷹島に移動して陣を張り、

そこから大宰府を攻めようとしていました。

元軍は、日本軍の夜襲に備えて、船を鎖でつないで、船を砦にしたのでした。

 

そこに、とてつもない大型台風がきた。

それで、船同士がぶつかって、大量に船は沈んでしまった。

これが、神風伝説といわれています。

 

その時の、蒙古軍では、

将軍クラスの幹部だけが、船を独占して逃げてしまったそうです。

 

そこで、数万人の一般兵士はとり残され、

逆に皆殺しの目にあったのだそうです。

取り残された蒙古軍には、食料もなく、武器もない状態に、

鎌倉武士団が襲い掛かったのです。

南宗人だけを捕虜にして、蒙古人と高麗人は、全員皆殺しにしたそうです。

 

鷹島には、首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、地獄谷など、

その時代のことを示す、物騒な地名が残っているそうです。

 

百田さんは、

もし、大型台風がこなくとも、日本は勝っていただろう。

すでに新鮮な食料は無くなり、船の中で疫病が流行り、

元軍の戦意は喪失していたと語られました。

 

当時、元軍に攻められて防衛できたのは、

なんと日本と、ベトナムだけだったそうです。

 

 

 

ちょっと残酷な歴史の話ですが、

これも、「平和ボケ」している訳にはいかないぞ!

という百田尚樹さんからのメッセージ。

 

今の時代を生きる私たちへの、警鐘なのです。

 

これからの日本に必要なもの、今大切なのは、

1に教育。

2に国防である。

…というのが百田尚樹さんのメッセージです。

 

「平和ボケ」なんてしている時ではありません。

 

一票を投じる日が近づいてきています。

歴史を学び、政治にも関心をもって、

しっかりと生き抜いていきたいものだと思います。

 

 

おススメの本

日本国紀 百田尚樹氏

https://www.gentosha.co.jp/book/b12056.html

 

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