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『母トシ子を巻き込んだ「本の蟲」飯田四郎』 ~母のミニ自分史・完結編~

2週にわたってミニ連載させていただいた

聞き書きで取り組んでいる、私の母の自分史。

 

今回は、母トシ子と、その兄飯田四郎が、

戦後の混乱期を生き抜き、

印刷会社と、地方出版「芸文堂」を

創業する頃のお話です。

 

ミニ連載の完結編です。

 

今回のテーマは、

『母トシ子を巻き込んだ「本の蟲」飯田四郎』

~母のミニ自分史・完結編~

 

ぜひお読みください!

 

 

(‘◇’)ゞ

 

【戦後の混乱期…トシ子は希望を胸に…】

 

終戦を迎えた昭和20年8月15日、

昭和6年生まれの母トシ子は、まだ13歳。

長崎県立佐世保高等女学校の1年生だった。

 

その後、教育改革によって発足した、

「長崎県立佐世保南高校」に第3期生として編入し、

昭和26年3月の卒業後、活水女子短期大学英文科に進学した。

 

当時の活水女子短期大学には、英文科と家政科があった。

戦後、仮住まいのバラックを訪ねてきた若いアメリカ兵と、

南京帰りの姉のトキが英語で話しているのを聞いて、

英語を話せるトキに憧れ英語に興味をもったのだった。

 

戦後の原家は、会社も家も丸焼けですべてを失っていた。

父繁一は、石工の仕事という手に職は持っていたので、

年をとっても仕事はできたが、経済的には大変だった。

 

トシ子は、活水短期大学に入学する際には、

奨学金を借り、短大の教室の掃除のバイトもしていた。

 

トシ子は、昭和26年3月に卒業後、

現在の西海市大島町にあった、

大島町立大島東中学校に採用され、

1年生担当の英語教員として教職についた。

 

しかし、希望にあふれて働き始めたトシ子に病魔が襲ってきた。

結核が再発したのだ。

教職についてたったの1ケ月で喀血してしまい、

佐世保市民病院に入院することとなった。

 

1ケ月間の入院のあと、自宅で療養することとなった。

大島東中学校は、トシ子に配慮し、

入院後も半年間は籍を置いてくださっていたのだが、

復職は叶わなかった。

 

家族が心配したこともあり、

結局そのまま退職することになったのだ。

 

 

【「本の蟲」兄 飯田四郎】

 

一方、兄の飯田四郎は、というと・・・

昭和12年(1937年)、佐世保工業学校工芸科

(のちの佐世保工業高校)一期生として入学。

 

昭和16年(1941年)には、大東亜戦争開戦により3か月繰り上げで卒業。

 

昭和17年1月から佐世保海軍工廠水雷工場設計課に勤務し、

設計士として働いた。

 

しかし、昭和18年秋より、病気のため休職療養することとなった。

四郎の療養生活は、本と暮らした毎日であった。

1日2、3時間は真剣に読んでいたそうだ。

正に「本の蟲」だった。

 

昭和20年(1945年)8月15日の終戦を経て、

その後の数年間、四郎は、陶磁器に深い興味を持ち、

三川内・波佐見で陶芸を学んだのだった。

 

しかし、佐世保大空襲のとき、

蔵書を火鉢にいれて床下に埋めて守ったほど、

本をこよなく好きだった四郎は、

昭和24年(1949年)3月に

佐世保孔版社を須佐町の自宅にて個人開業し、

謄写版というガリ版印刷の商売を始めた。

 

まだ、コンピュータどころか、

近代的生産設備など望みようもなかった戦後の復興期。

 

四郎は、「ロウ紙とよばれる原紙」を、

「ヤスリ状の金属の平たい板」にセットし、

「鉄筆」で文字を手書きして「版」を作り、

ローラーを転がして一枚一枚「印刷」するという、

ガリ版印刷を商売として始めたのだ。

 

手先が器用で、絵も巧かった四郎は、

ガリ版での仕事も、とても高品質に仕上げていた。

 

これが手書きなのか?というほど美しい文字で印刷し、

色版の重ね刷りもこなしていたのだ。

 

※昭和28年に飯田四郎が発行した

謄写版印刷による随筆集の画像はコチラから!

 

【トシ子の結婚】

 

昭和26年の秋頃、病状が落ち着いたトシ子は、

商売が軌道に乗ってきた四郎に呼ばれて、

「校正」の仕事を手伝うようになった。

 

一度、校正用に印刷したものを、

お客様にお渡しする前に、トシ子が校正していたのだ。

 

昭和30年(1955年)6月、

四郎は、オフセット印刷設備を導入し、

社名を「有限会社エスケイ印刷」と改めて法人化した。

 

この社名は、「佐世保孔版社」の

アルファベットの頭文字から命名したものだった。

 

その後、トシ子は、

SK印刷の営業として勤務していた波多さんの紹介で、

中村壽雄と結婚することになった。

中村壽雄は、波多さんの東亜中学時代の同級生。

結婚式は佐世保玉屋の別館の式場で行った。

 

戦前は、炭鉱の経営や、

海軍御用達の中村タイル商会の経営をしていた中村家だったが、

戦後の混乱期には、

食べていくために、先祖代々の土地である小佐々町に移り住み、

素人ながらにも農業を営んでいた。

 

トシ子が嫁いでいったのは、この小佐々町の中村家だった。

 

トシ子は、校正の仕事を、結婚後も続けていた。

トシ子が嫁いでいった小佐々町の家まで、

校正紙と原稿を社員が届けにきてくれていたのだ。

 

その後、四郎は、トシ子の夫壽雄を誘い、

SK印刷の営業を任せることとなった。

壽雄は専務として、会社の中核を担っていった。

 

 

この壽雄とトシ子の間に、昭和35年に生まれたのが

私、中村徳裕です。

 

創業者である叔父 飯田四郎の跡を継いで、

2代目社長として有限会社エスケイ・アイ・コーポレーション

そして地方出版「芸文堂」の代表を務めています。

 

「地方文化に奉仕する」を自らのモットーとし、

「紙」「印刷」「装丁」「造本」が大好きで、

「本」を創る人を応援することが生きがいだった創業者飯田四郎。

 

叔父がつくった「エスケイ」と「芸文堂」の歴史を振り返りながら、

変わらぬ情熱をもって、新しい時代を進んでいきたいと思います。

 

皆さまの変わらぬご指導ご鞭撻、そしてご協力のほど、

なにとぞよろしくお願いいたします。

 

有限会社エスケイ・アイ・コーポレーション

芸文堂・月刊ならでわ!

代表取締役 中村徳裕

ⅿ(__)m

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