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『母の自分史-続編-嬉野で見たキノコ雲』

先週のメルマガでご紹介した

制作中の「母の自分史」。

 

おかげさまで、いつも以上に反響をいただきました。

 

ある女性読者さまから、メルマガの感想に加えて、

「96歳の母の人生をプロの落語家が落語にして誕生日に贈る」

という企画動画を紹介してもらいました。

 

そのお母さんが奇しくも佐世保にゆかりのある方で、

語り部の女性落語家さんがとても素敵な方!

その語り口に心を奪われました!

 

よろしければご覧ください!

「プロの落語家がサプライズで人生を落語に!

96歳の誕生日に娘達から母親へ贈るメモリプレイを落語家が熱演」

https://youtu.be/vmJclgHCkTI

(19分35秒)

 

さて、今回のテーマは、

『母の自分史-続編-嬉野で見たキノコ雲』

 

ぜひ、お読みください。

 

m(__)m

先週に続いて、現在、聞き書きで制作中の

私の母トシ子の「自分史」のつづきを、

あと少しだけ掲載します。

 

前回は、佐世保大空襲で、兄と二人、山に逃げて生き延びたところまで。

今回は、疎開先で見たキノコ雲のお話です。

 

【嬉野への疎開】

佐世保大空襲で家が焼けてしまったあと、

父繁一は、大きな岩の下に10人くらいは寝泊りできる仮の家を作ってくれた。

 

岩の下に、木造の建物を継ぎ足して、

何人か暮らせるような部屋をこしらえてくれたのだ。

少し離れた場所にトイレも作ってくれた。

 

しかし、まだ戦争はどうなるかわからない。

父繁一は、娘や孫を疎開させることに決めた。

 

トシ子の姉ハルの嫁ぎ先の里、佐賀県嬉野に、

ハルとその娘浩子と三人を、疎開させることにしたのだ。

 

その嬉野の家は、戦地に出向いていたハルの旦那の叔父の家だった。

 

坂を上った斜面にある立派な屋敷だった。

その家の近くには小川があり、小さな川魚が泳いでいた。

それをすくって帰って、料理してもらったこともあった。

 

しかし、この疎開生活も長くは続かなかった。

 

【嬉野で見たキノコ雲】

8月9日に長崎市に原爆が投下された時、

トシ子はこの家の縁側から、大きなキノコ雲を見た。

嬉野の地から、山の上にオレンジ色のキノコ雲が大きく見えたのだ。

 

まだ誰も原子爆弾という言葉を知らなかった。

周りの大人は「新型爆弾が落とされた」と言っていた。

 

その時、トシ子は、こうなったら危ない、

もう終わりかもしれないと思った。

 

「どうせ死ぬなら、お父さんお母さんのそばで終わりを迎えたい」と思ったのだ。

 

トシ子と姪の浩子の二人は、嬉野からバスで武雄に向かい、

汽車で佐世保に戻った。

 

佐世保に辿り着いたのは夜明け頃、まだ暗い時間だった。

 

汽車の座席に同席した、見ず知らずのおばさんが心配してくれて、

「明るくなるまで私の家で休みなさい」

といって潮見町の家で休ませてくださった。

 

明るくなってその家を出ると、

焼野原になってしまった佐世保は、

遠くまで見通せるほど何もなかった。

家族がいるはずの須佐町に向かう道中も、ずっと焼野原だった。

 

そして、岩の下の仮の家にたどり着いた。

やっと、父繁一と母ヤスと再会。

 

そこで終戦を迎えることになったのだ。

 

【進駐軍との遭遇】

終戦後しばらくして、岩の下の仮の家に、

二人の進駐軍の兵隊さんがやってきた。

 

若くてカッコいいアメリカ人だった。

 

うちに上がり込んで、姉のトキと話していた。

姉のトキは、電話局に勤務しており、中国の南京に勤務していた。

幸運なことに、戦後すぐ引き揚げることができたのだ。

トキは、中国語はもちろん、英語も少し話せた。

 

鬼畜米英と、あんなに教えられていたのだが、

進駐軍の二人は、なんということもない紳士的な好青年だった。

 

 

【現代に戻って・・・】

トシ子に手を引かれながら、疎開先から戻ってきた姪の浩子。

 

大人になってから、西肥バスのバスガイドとして活躍しました。

 

その後、読みと語りの特技を磨き、

弊社出版部「芸文堂」の文字校正担当として、

今も活躍してくれています。

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