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自分史ブーム!母の話を聞き書きしながら作ってみた!!

もうすぐ90才の誕生日を迎える母トシ子。

この年齢になっても、昔のことは良く覚えていて、

質問すると物語のように語ってくれます。

 

しかし「自伝を書いてよ!」と言っても、

なかなか書いてくれませんでした。

 

そこで、今、母に語ってもらいながら、

僕がパソコンに文字打ちしていくという「聞き書きスタイル」で、

母の自分史=家の歴史本の制作に挑戦し始めました。

 

今回のテーマは

『自分史ブーム!母の話を聞き書きしながら作ってみた!!』

 

ぜひお読みください。

 

(‘◇’)ゞ

 

【昔は良かった!?・・・本当に!?】

現代は、新型コロナ感染症、少子高齢化、地球温暖化に始まって、

心配ゴトを数え始めるとキリがありません。

 

新型コロナ感染症対策は最優先ですが、

ストレスが溜まっているという方も多いと思います。

 

昔は良かった・・・?

 

本当にそうでしょうか・・・?

 

母の、幼少期の体験談を聞き書きしていたら、

いやいや、現代の方が100倍、いや1千倍

マシな良い世の中だと思えてきます。

 

今制作中の、僕の母の物語、

一部分だけですが、お読みいただければと思います。

これを読んだら、今のストレスが、

少し軽く感じられるようになるかもしれません。

 

 

【二人の兄の物語】

原(母の旧姓)家の長男である兄の十郎は、

体格も良く、ガチっとして頼りになるタイプだった。

長崎市内の郵便局に勤務し、その後佐世保郵便局に転勤で戻ってきた。

 

しかし、十郎は、「結核」に罹患し入院することになった。

当時、結核には特効薬がなかった。

 

当時、小佐世保小学校4年生だったトシ子は、

放課後になると、十郎が入院している佐世保北病院

(梅田町、現在は商業施設になっている)に、

母ヤスが付き添っていたこともあり、頻繁に通っていた。

母にも、兄にも会いたかったのだ。

 

母の思いは届かず、

看護も虚しく、十郎は残念なことに19歳で没した。

さらに、トシ子にも結核がうつってしまった。

 

次男、原四郎は、大正13年生まれ。

小さな時から絵を描くのが上手く大好きだった。

見かけるといつも絵をかいていた。

四郎は、佐世保工業高校の一期生として入学した。

美術が大好きで、油絵も嗜んだ。

そして、親族に望まれて養子になり飯田四郎となった。

(現在の有限会社エスケイ・アイ・コーポレーションの創業者)

こともあろうか、四郎も結核に罹患してしまっていた。

十郎から家庭内で感染したものと思われる。

 

【佐世保空襲、兄妹で山に逃げる】

昭和20年6月28日から29日にかけての未明、

アメリカ軍機による佐世保大空襲があった。

その時、須佐町の原家自宅に残っていたのは、

兄飯田四郎と、トシ子だけだった。

二人とも結核の自宅療養中で、ふとんに臥せっていた。

 

空襲警報を聞いた四郎が、

「今回はいつもと違う。このままここに居ては危ない。防空壕に行こう」

とトシ子を起こした。

 

そして、洗面器を抱えて二人で防空壕に向かって移動した。

しかし、父繁一が自ら掘って備えていた防空壕に行ってみると、

すでに見ず知らずの人々で満員状態だった。

もう二人の入る場所はなかった。

 

この防空壕は、石工を生業としていた繁一が、近所の知り合いに声をかけて、

お金を出し合って掘った防空壕だった。

防空壕の中を区切って、出資した家族ごとに専用の場所も決めてあったのだが、

街中から避難してきた人たちが、我先にと入り込んでいたのであった。

 

そこで四郎は防空壕を諦め、

「もっと山の上の方に登ろう」とトシ子を励まし、

二人は小佐世保の山手の方に向かって歩き続けた。

 

その途中、別の防空壕の入り口が燃えているのを見つけた。

四郎は洗面器で水を掛けて、防空壕入口の火事を消した。

 

その後も階段を上り続け、山の中で空襲が終わるのを待っていた。

 

空襲が止んだあと、山の途中に繁一が作っていた

岩場に屋根をかけたような小屋の中で過ごした。

朝になって、家に戻ろうと山を下りたが、家は全焼していた。

 

近所の知り合いの家も、軒並み全焼。

焼夷弾の直撃を受け亡くなったと聞いた知り合いもおられたそうだ。

 

本が大好きだった兄の飯田四郎は、

家の床下に岩波文庫を一杯に詰めた火鉢を埋めていた。

その火鉢の中の本は、空襲で丸焼けになった家の床下から、

無事に掘り出すことができたのだった。

 

その本と火鉢は、76年の時を超えて、

今も山祗町の有限会社エスケイ・アイ・コーポレーションに保存されている。

 

To be continued

・・・つづく

 

 

【現代に戻って・・・】

いかがでしょうか?

 

B29から焼夷弾が雨のように降ってきた夜。

 

もし、自分自身も結核療養中だった兄四郎が、

おなじく結核で寝込んでいた妹トシ子を起こして、

諦めず、励まし、山に向かって登り続け、

生き抜いてくれなかったら・・・

 

僕は生まれていません。

叔父と母が生き抜いてくれたことに感謝しかありません。

 

 

今、「ある」「持っている」ということに、思いを集中することで、

平和や日常の幸せの尊さを感じることができると思います。

 

そのためにも、

昔、「なかった」こと「大変だったこと」を語り継ぎ、

「自分史」「家族史」として残すことで、

子孫に、そして社会に、

平和や 日常の幸せを拡げることができる。

 

そんなことを考えながら、

母からの聞き書きの自分史づくりは続きます。

 

To be continued again

・・・再びつづく

 

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